自動車にあこがれた少年時代
~集団就職で上京~
会津商店の創業者、合津勇は昭和16年に長野県上山田村に生まれました。家の近くには千曲川が流れ、一帯には名のある温泉も多く、自然豊かな環境で育ちました。
戦後復興のさなか、当時まだ自動車が珍しかった少年時代を過ごした勇少年は、密かに車に関わる仕事に憧れていました。
昭和31年、経済白書に書かれた「もはや戦後ではない」の一文は、そんな戦後復興期から高度経済成長への転換点の象徴となりました。地方から都会へとめざす若者たちは「金の卵」と呼ばれ、きたるべき経済発展に備えて集団就職がはじまったのです。
昭和32年、集団就職によって16歳で上京した合津少年は、自動車部品工場で働くことになりました。折しも通産省から「国民車構想」(昭和30年)が発表され、大衆車の製造開発への積極的な支援を国を挙げて打ち出していました。これを機に、トヨタ自動車をはじめ、富士重工、鈴木自動車工業など数多くの自動車産業が発展しはじめました。中でもスバル360は一般大衆に広く歓迎され、爆発的な人気車となりました。
部品工場で資金を貯め、26才で独立
~高度経済成長とともに~
昭和39年、東京オリンピック開催に合わせて、首都高速道路が整備されました。経済成長と呼応するように日本車の大量生産はますます進んでいきます。ちまたでは小林旭の歌う「自動車ショー歌」が流行し、続々と発表される国産車に大勢の人たちが目を奪われていきました。23歳になっていた合津勇は、そんな自動車産業の片隅で黙々と働いていました。
しかし大量生産、大量消費時代の陰で、公害や大量のゴミ処理問題も起きていました。こうした時代の潮流の中で、合津青年は会社をやめて、たった一人で自動車解体の事業を始めたのです。昭和42年、まだ26歳のことでした。もちろん開業といっても生活は苦しく、家は居候で、解体作業も近所の原っぱで行いました。
昭和43年、日本のGNPはアメリカに次いで世界第2位に躍り出ました。街には鉄筋コンクリート造のビルが建ちはじめ、鉄の需要は高まるばかりです。日本では鉄鉱石がほとんど採れず、輸入に頼るのが現状です。使われなくなった自動車から出る鉄屑も重要な鉄資源として再利用されました。自動車の解体業は、まさに時代のニーズに合っていたのです。
真面目で実直な性格の合津青年の評判はよく、着実に業績を伸ばしていきました。また時を同じくして、結婚。そして長男の新一も誕生しました。
江戸川区で会社設立
~自動車大国日本の誕生~
昭和50年、これまで個人事業で行ってきた解体事業を法人化し、江戸川区鹿骨に有限会社会津商店を設立しました。独立から8年後、合津青年34歳の頃でした。
この年代は、国産車の製造台数が飛躍的に伸びた時代でもありました。昭和55年には日本車の生産台数はアメリカを抜いて世界第1位となり、日米貿易摩擦が問題化しました。一方、自動車解体の仕事も大忙しで、最盛期には江戸川区だけでも150社ほどの解体事業者が看板を掲げ、常に人手不足に悩まされました。
昭和60年に東京国際見本市で開かれた第26回東京モーターショーでは、過去最高になる1032台の出品車数を数えるなど、自動車業界では多品種化が進んでいきました。しかしその一方で、日米間の貿易摩擦打開のために「プラザ合意」がなされ、これを機に日本は深刻な円高不況に陥り、特に輸出事業には大きな影響が出はじめたのです。この不況対策のために日銀は金融緩和と公定歩合の引き下げを行い、その結果、日本では未曾有の好景気、すなわち「バブル景気」が発生しました。
しかしそうした中、平成2年に産業廃棄物事業者による重大な事件が発覚したのです。香川県にある豊島(てしま)で、16年間にわたり不法投棄を続けていた事業者が摘発されました。瀬戸内海に囲まれた美しい島で、56万トンにも及ぶ大量の廃棄物が野焼きされ、ダイオキシンなどの有害物質が発生。この一連の事件は「豊島事件」と呼ばれました。この出来事がきっかけとなり、自動車リサイクルに関する法律整備がはじまりました。
二代目へのバトン
~バブル崩壊、そして新規開拓~
バブル経済の終焉により、日本は先の見えない不景気の沼へと入り込んでいきます。しかし同じ頃に、自動車解体事業を取り巻く環境や、中古車市場にも変化が起きはじめました。
そのひとつは、平成5年前後から登場した自動車買取り専門業者の存在です。それまで中古車といえばディーラーに下取りしてもらうことが一般的でしたが、CMなどで中古車買取り専門店の知名度が高まるにつれて、一般ユーザーの選択肢にも変化がもたらされました。こうした専門店は次第に規模を拡大し、大手企業にまで成長していきます。
そしてもうひとつはオートオークションの普及です。中古車オークションは古くからありましたが、現物を展示する必要があるためコストが高くついていました。ところがこの時代にはビデオカメラなどの映像機器が一般に普及し、実物展示ではなく映像でもオークションが行えるようになったのです。こうしてオークションを開催する機会が増えていきました。
これらのことは、自動車解体事業者にとって大きな転換点となりました。それまで中古車の引き取りはディーラーからのルートだけ済んでいたものが、これからの時代は多彩なルートの新規開拓が必要になったのです。
しかし、ちょうどその頃、長年の疲労がたまっていた合津勇を大病が襲いました。齢は五十代半ばに差し掛かっていました。そんな父親の姿を見かねたのが長男の新一でした。新一は大学卒業後、大手の自動車販売店で新車の営業マンとなっていましたが、平成10年に父のピンチを受け、会社を辞めて家業に就くことを決意します。父は、我が子に「とにかくカバンを持って、外を回れ」と諭しました。
壊すことは生み出すこと
~リサイクル社会への取り組み~
戦後日本の経済発展を象徴してきた自動車産業。しかしその裏側で、大量生産と大量消費の時代に生じた公害問題を乗り越えるため、法整備も進められました。平成11年には「ダイオキシン類対策特別措置法」が、翌12年には「循環型社会形成推進基本法」が制定され、社会全体が環境問題への関心を高めていきました。そして平成14年には「自動車リサイクル法」が国会を通過、平成17年に実施されました。こうして時代は「大量廃棄」から「循環リサイクル型」へと移り変わりました。
今からおよそ50年前、合津勇がたった一人ではじめた解体事業も、時代の変化とともに形を変え環境問題を考えた社内体制づくりに努めてきました。その後継者となった二代目社長の合津新一もまた、この20年間、営業マンの経験を活かして新規開拓に明け暮れました。新一の胸の奥には、裸一貫で事業を興してきた父への尊敬があります。一方、父の勇も、厳しい時代に会社を受け継ぎ営業に奔走する我が子を、頼もしく見守っています。
会津商店は経営者親子の絆が強く、それはアットホームな社風にも通じています。社員の定着率も高く、スタッフのチームワークが良いのもそのためです。
自動車の解体は、新たな資源の誕生といえます。私たちは壊すことを通じて新たな時代の始まりに貢献できると信じ、誇りをもってこれからの時代も誠実に取り組んでまいります。